宜保愛子の死因は? かもめ荘の呪いという話がいつ生まれたのか

宜保愛子の死因と「かもめ荘の呪い」という都市伝説の起源を考察するアイキャッチ画像

宜保愛子さんは2003年5月6日、胃がんのため71歳で亡くなりました

当時の訃報は、亡くなった時刻まで記録しています。それ以外の死因が記録に出てきたことは一度もありません。

「呪いで死んだって聞いたけど、本当なんだろうか」

それなのに、いま検索すると「かもめ荘の呪い」という話のほうが先に目に入ることがあります。

なぜ、亡くなった理由よりも呪いの話のほうが広く見えるのでしょうか。報道に残っている記録と、後から広まった話を分けて、それぞれがいつどこから来たのかをたどっていきます。

目次

結論|宜保愛子の死因は胃がん(2003年5月6日・享年71)

宜保愛子さんは2003年5月6日午前10時28分、胃がんのため都内の病院で死去しました。71歳でした。まずこの記録の中身を固めます。

項目内容
生年月日1932年1月5日(神奈川県横浜市生まれ)
没年月日・時刻2003年5月6日 午前10時28分
死去した場所都内の病院
死因胃がん
享年71歳
葬儀の形親族のみの密葬

当時の記録を、一つずつ示します。

報じられている死因と、亡くなった日

2003年5月6日午前10時28分、宜保愛子さんは胃がんのため都内の病院で亡くなりました。71歳でした。生年は1932年1月5日、神奈川県横浜市生まれです。

亡くなったことが報じられたのは、その3日後の5月9日でした。すぐには公表されず、3日間の間があったことになります。この間には、後段で触れる本人の遺言が関わっています。

病院名や、亡くなるまでの経過については、当時の報道にも記載がありません。ここでは「都内の病院」という、報道に残っている範囲までを書きます。

「限りなくひっそりと静かに旅立ちたい」という遺言

亡くなった宜保愛子さんについて、親族の話として、こう報じられています。「限りなくひっそりと静かに旅立ちたい」という本人の遺言に従い、親族のみの密葬が行われた、と。

引用できるのはこの一文だけです。前後にどんな言葉が続いていたのかは、当時の報道にも残っていません。

この「静かに送られることを望んでいた」という事実は、この先の話でもう一度出てきます。家族について、どこまで書き、どこで止めるかを決めているのが、この遺言です。

死因と「呪い」を結ぶ記録が見つからない事実

ただし、ここには最も慎重に扱うべき一点があります。

「呪い」や「霊障」を宜保愛子さんの死因と結びつけた記録があるかどうかを探しました。当時の報道にも、事典の記述にも、そう書いたものは見つかりませんでした。

これは「呪いなど存在しない」という断定ではありません。存在する・しないのどちらにも決めず、「見つからなかった」というところで止めます。ここから先も、どちらの立場も取りません。記録として残っている範囲がどこまでかを、一つずつ示していきます。

宜保愛子の死因に「呪い」の話がついた経緯

死因の記録を確認したところで、次は「呪い」の話そのものに向き合います。

この話を否定も肯定もせず、いつ・どんな形で始まり、いつ宜保愛子さんの名前が入ったのかをたどってみます。

伝言ゲームを思い出してください。最初に言った人がいて、途中で「たぶんこういうことだろう」という一言が足され、最後には最初とは別の話になっている、あの現象です。誰かが嘘をついたわけではなく、悪意がなくても話は形を変えていきます。

話をさかのぼると消えている名前

たどれる範囲でいちばん古い形をさかのぼると、2008年ごろのネット上の書き込みに行き着きます。そこに、霊能者の名前は入っていません。ある廃墟が心霊スポットとして語られている、という書き込みでした。

2014年になっても、状況は変わりません。市販された心霊スポットのDVDの商品説明には「有名霊媒師」、同じころの個人ブログには「ある女性霊能者」とあります。どちらも名前のない、匿名の書かれ方です。しかもブログのほうは、その人物が亡くなったことにすら触れていません。

実名の形が標準になったのは、2021年11月です。この建物の解体が新聞で報じられ、話が一気に拡散したときでした。ここで初めて、実名で語られる形が広まったのです。

たどれる範囲では、という留保をここで付けておきます。インターネットの黎明期に作られ、すでに消えてしまったページまでは確認できていません。だから、2003年以前にこの話が一切無かったと言い切ることもできません。分かっているのは、いま確認できる記録の中では、この順番だった、ということです。

だからといって、「作り話だった」とは言いません。順番を並べて、そこで止めます。

いま読者が目にしている「宜保愛子さんが呪われた話」の形は、彼女が亡くなってから18年たった時点で、ようやく完成したことになります。

亡くなった人の名前に話が足されていく仕組み

生きている人についての噂は、本人が「違います」と否定できます。しかし亡くなった人についての噂は、誰も否定しないまま残り、そのぶん足され続けます。

足される方向にはパターンがあります。本人が有名だった分野に沿って足されるのです。霊能者であれば、霊にまつわる死に方が結び付けられます。

同じ2021年の拡散のとき、建物のほうにも新しい設定が加わっています。「解体しようとすると作業員に不幸が起きて中止になった」という設定です。しかし新聞が書いている解体の遅れの理由は、所有者が買い手を見つけられず、費用の目途が立たなかったことでした。2021年8月に解体の補助金が採択され、9月に着工しています。

人にも、建物にも、同じタイミングで同じ種類の話が足されていました。ここでは、その仕組みを説明するだけにとどめます。噂を信じている人を責めるつもりはありません。

いまも新しく作られ続けている「宜保愛子の言葉」

宜保愛子さんが亡くなったのは2003年ですが、没後20年以上たった現在も、「最後の予言」「最新のメッセージ」として新しい内容が流通し続けています。

その中身には立ち入りません。何年に何が起きるという内容は、一文字も扱いません。取り上げるのは、そうした話が増え続けているという現象そのものだけです。

かもめ荘の呪いも、同じ仕組みで足された話の一つかもしれません。ただし、そう決めつけることはしません。

言い伝えの出どころをたどると別の姿が見えてくる話は、他のテーマでも起きています。

「かもめ荘」と「入れなかった場所」|記録が残っている範囲

読者が最も知りたいであろう固有名詞に、ここで向き合います。かもめ荘、そして山形の滝不動・北海道の雄別炭鉱・富山の坪野鉱泉です。

ここでも、確認できることだけを書きます。行き方や、現在の立ち入り可否には触れません。

かもめ荘には「訪れて除霊に失敗した」という話が、滝不動・雄別炭鉱・坪野鉱泉には「危険を感じて入るのを拒んだ」という話が、それぞれ付いています。番組名・放送日の記載があるかどうかを確認しました。

場所(都道府県)番組名・放送日の記載
かもめ荘(島根)なし
滝不動(山形)なし
雄別炭鉱(北海道)なし
坪野鉱泉(富山)なし

4か所とも「なし」で揃っています。この表の意味は、これがすべてです。

かもめ荘という建物の来歴

かもめ荘があったのは、島根県出雲市大社町日御碕です。千葉県ではありません。他の廃墟と混同している場合があるため、県名をはっきり示します。

1970年に建てられた鉄筋コンクリート造3階建てで、身体障害者がリハビリを行う保養所として開業しました。のちに、一般客も受け入れる宿泊施設になったと、元従業員の証言として新聞が報じています。

1970年代後半に休業し、そのあと40年以上、手つかずのまま残されました。2021年8月、国立公園内の景観を損なう建物として解体補助金が採択され、9月に着工、2022年2月に解体が完了しています。跡地は2023年3月19日、グランピング施設として開業しました。

この建物をめぐっては、「開かずの扉」という話も語られています。ただし、放送された記録は確認できず、語られる内容も伝わり方によってばらつきがあるため、ここでは「そういう話が語られている」というところまでにとどめます。

ここで一つ、時系列の点を示しておきます。この建物が使われなくなったのは1970年代後半で、宜保愛子さんが全国区でテレビに出るようになる1983年より前のことです。順番を示すだけにとどめ、「だから話は嘘だ」とは書きません。

建物の側から見えていた景色

このかもめ荘という建物には、もう一つ、あまり語られていない側面があります。

解体を報じた新聞記事は、「テレビなどで『心霊スポット』と不名誉な紹介をされたために、肝試しの若者やマニアが無断で立ち入る」という、被害を受けた側の文脈で書かれています。その記事に、宜保愛子さんの名前は出てきません。

解体が長年進まなかった理由として新聞が挙げているのも、霊の話ではありません。買い手が見つからず、解体費用の目途が立たなかったことです。

噂の影響を受けていたのは、人だけではありませんでした。実在する建物のほうにも、無断で立ち入られるという形で、噂の影響が及んでいたのです。所有者や関係者を批判するつもりも、これ以上詮索するつもりもありません。

山形の滝不動・雄別炭鉱・坪野鉱泉に共通する語り口

かもめ荘とは別の県にある、別々の場所があります。山形の滝不動、北海道の雄別炭鉱、富山の坪野鉱泉です。

これらの場所には、「宜保愛子さんが来たが、危険を感じて入るのを拒んだ」という、同じ形の話が付いています。そして、どの場所についても、番組名も放送日も見つかりませんでした。それぞれの場所のWikipediaの記載にも、この話は載っていません。

書けるのは、ここまでです。同じ形の話が複数の場所に付いている、という観察の報告にとどめます。「だから全部作り話だ」とは書きません。それぞれの場所で語られている心霊現象の内容や、行き方、現在の状況の詳細にも触れません。

「拒否した」という話に番組名が付かない理由

実際に確認できるロケには、番組名と放送日がきちんと付いています。1989年8月5日、テレビ東京『土曜スペシャル 霊界の証明』の香港ロケ。1993年12月30日、日本テレビでのロンドン塔の霊視。2002年10月9日、フジテレビの特番でのアフリカでの収録。

一方、「入れなかった」「拒否した」という系統の話にだけ、番組名と放送日が付いていません。

放送法に基づく公的な番組アーカイブである放送ライブラリーを調べても、島根でのロケ番組は見つかりませんでした。ただし、このアーカイブがすべての番組を網羅しているわけではないという留保も付けておきます。

この対比が、このセクションの結論です。なぜそうなっているのかは断定しません。対比を置くだけにとどめます。

宜保愛子がテレビから消えた理由|1993年に起きたこと

多くの人が抱えている「いつの間にか見なくなった」という記憶の空白に、ここで日付のある出来事を当てはめていきます。

呪いではなく、記録に残っている出来事で説明がつくところを並べます。

出来事
1983年フジテレビ『これが世界の心霊だ!』初放送
1989年8月5日テレビ東京の香港ロケが放送
1991年3月1日TBS『金曜テレビの星!』視聴率19.4%
1993年3月大槻義彦氏の申し入れ
1993年10月『宜保愛子の謎:疑惑の霊能者』刊行
1994年2月反論本2冊刊行
1994年5月『オカルト徹底批判』刊行
1995年オウム真理教事件
2001年8月テレビに復帰
2002年10月9日確認できる最後の出演
2003年3月19日出ていた番組が終了
2003年5月6日死去

この年表を軸に、一つずつ具体を添えます。

1983年『これが世界の心霊だ!』と「横浜の普通の奥様」

フジテレビで1983年に放送が始まった『これが世界の心霊だ!』。司会は小川宏氏でした。このシリーズの第1回で、宜保愛子さんは「横浜にお住まいの普通の奥様」と紹介されています。

いま流通している「呪われた霊能者」というイメージと、当時の番組が実際に付けていた紹介文のあいだには、かなりの距離があります。

ブームの規模を数字で見ると、1991年3月1日のTBS『金曜テレビの星!』は視聴率19.4%を記録し、放送中の問い合わせが計4,000本を超え、投書も2,000通を超えました。

本人が1970年代半ばにテレビへ出はじめたころの話として、子どもたちに出演を反対され、関東では放送されない大阪の放送局に出ていたと、当時の総合誌のインタビューで語っています。この点は本人の語りとして触れるにとどめ、家族の内情には広げません。

同番組は2016年、チャンネルNECOで約33年ぶりに再放送されました。映像は今も現存しています。

1993年に始まった検証と批判

当時の訃報が、宜保愛子さんのテレビ出演が減った理由として挙げているのは、この1993年です。

1993年3月、早稲田大学の大槻義彦氏が、「事前のリサーチができない人物を霊視してほしい。ルーブルにある好きな絵を霊視してほしい」と申し入れたと当時報じられています。調査費用は大槻氏側の全額負担でした。宜保さん側はこれに応じませんでした。

同年10月、大槻義彦氏の著書『宜保愛子の謎:疑惑の霊能者』(悠飛社)が刊行されます。翌1994年2月には、この批判に反論する本が2冊出ています。『宜保愛子イジメを斬る!!』(スタジオシップ)と、『宜保愛子の証明』(データハウス)です。当時の論争は、一方通行だけではありませんでした。

同年5月には、呉智英氏監修の『オカルト徹底批判』(朝日新聞社)も刊行されています。

1994年、TBSで大槻氏との検証番組の収録が決まりましたが、収録前日に実現しなくなったと、大槻氏本人が後年語っています。

批判した側を一方的な攻撃者として描くつもりはありません。ここに書けるのは、「検証と批判が行われた」という事実の提示までです。

「約5年間」の理由を、訃報の原文はどう書いていたか

ここが、今回もっとも価値のある発見です。

当時の訃報は、テレビ出演が減った理由をこう書いています。1993年、早稲田大学の大槻義彦氏に「バカバカしいほどインチキ。科学的根拠がない」と批判され、霊能力を疑問視する声も強まった。各方面から激しいバッシングを受け、約5年間、テレビ出演から遠ざかった時期もあった、と。

オウム真理教事件への言及はありません。この訃報の原文には、そう明記されていません。

一方で、いま広く読まれている説明では、「1995年のオウム真理教事件の影響でテレビから消えた」となっています。その説明の出典として、この訃報が挙げられていることがありますが、訃報そのものにはそう書かれていません。

これは、特定のサイトが間違っているという指摘ではありません。書けるのは、「訃報の原文にはこう書かれている」という提示までです。

「呪いの話」だけでなく、まじめに見える説明のほうにも、出典と中身がずれている箇所があります。ここまでたどってきた作業の意味が、一つはっきりします。

1995年の事件と、心霊番組そのものの行方

1995年のオウム真理教事件をきっかけに心霊番組が減ったという見方は、当時を知る人の証言としては存在します。テレビ局に批判が寄せられ、以降「霊的なオカルト」の番組が激減した、という趣旨です。

ただし、ここでは断定を避けます。90年代後半もオカルト番組は続いていたという見方もあり、局の編成がいつどう変わったかを示す一次資料は見つかりませんでした。

仮にそうだったとしても、これは宜保愛子さん個人に起きたことではなく、テレビ業界全体に起きたことです。番組の枠そのものが減れば、出る人がいても出る場所がなくなります。

「消えた」という言葉の主語は、本人ではなく、番組の枠のほうだったのかもしれません。

「本物だったのか」という問いの置き場所

宜保愛子さんの霊能力が「本物だった」とも「偽物だった」とも、ここでは書きません。書けるのは、当時、真偽をめぐって検証と批判が行われ、決着はつかなかったという記録です。

1993年12月30日、日本テレビ『新たなる挑戦II』でのロンドン塔の霊視については、後に「霊視した階は1世紀以上あとの増築だった」「内容が夏目漱石の『倫敦塔』とほぼ一致する」という指摘がありました。そうした指摘があったという記録の提示にとどめ、当サイトとして判定はしません。

この問いは、ここまで扱ってきた死因とは別の問いです。霊能力が本物かどうかということと、死因が何かということは、関係がありません。

もっとも厳しく検証と批判を行った大槻義彦氏は、宜保愛子さんが亡くなったときにこう述べています。「霊感商法等により露骨な金儲けを行うような事は一切なかったところは評価できる。私は彼女の霊的現象について疑義を持っていろいろと批判、検証はしたが、彼女の人間性や人柄までは否定するつもりは一切なかった」。この言葉は、そのまま置いておきます。

宜保愛子の晩年|2001年8月のテレビ復帰と最後の出演

「消えたまま亡くなった」という前提を、ここで事実で置き換えます。

役者が舞台を降りたのではなく、舞台のほうが畳まれていました。役者本人が辞めたわけではなく、劇場が閉まっていただけなら、劇場がまた開いたとき、その人は戻ってきます。

2001年8月、中学生からの相談で戻ったテレビ

2001年8月、宜保愛子さんはフジテレビ『力の限りゴーゴゴー!!』の「ふんどし先生」というコーナーに出演します。きっかけは、神戸市の中学2年生の女の子からの相談でした。「小学生の頃から霊が見えてしまい、学校や外に出るのが苦痛になっている」という内容です。

復帰のきっかけが、心霊スポットでも特番の企画でもなく、困っている子どもからの相談だったという事実が、ここから先のトーンを決めています。相談者は未成年で個人のため、氏名や学校名、現在についてはここでは触れません。事実だけを置いておきます。

記録に残っている最後のテレビ出演

「最後の出演」として広まっている番組名にはいくつかの説がありますが、出典を確認できるものではないため、ここでは扱いません。

書けるのは、放送法に基づく公的な番組アーカイブである放送ライブラリーに所蔵されている記録です。2002年10月9日(水)19:00〜20:54、フジテレビ『日本列島元気満点!力あわせてゴーゴゴー!! ネプ×宜保×マサイ 国際心霊交流スペシャル』。内容は、アフリカでマサイ族の予知能力者と交流するというものでした。

『力の限りゴーゴゴー!!』は2002年9月11日に終了し、後継番組が同年10月9日から2003年3月19日まで放送されています。番組名が変わっていることも、あわせて添えておきます。番組の内容そのものは、記録に残っている範囲までで、それ以上は推測しません。

2021年7月14日には、テレビ東京の番組で1989年のロケ映像が再編集されて放送されました。映像は今も残り、時おり放送されています。

「消えたまま亡くなった」という筋書きとのずれ

ここまでの流れを、順番に並べます。1990年代半ばに出演が減り、2001年8月に復帰し、2002年10月に特番に出演しました。出ていた番組は2003年3月19日に終了し、その約1か月半後の5月6日に亡くなっています

執筆も途切れていませんでした。2003年1月刊の『宜保愛子の霊がよろこぶ 法事・仏壇・お墓の供養』(日東書院)が、生前最後の著書です。

「呪われて消え、消えたまま死んだ」という筋書きは、この順番とは合いません。だからといって、「呪いは嘘だ」とは続けません。順番を並べて、そこで止めておきます。

遺著に残された「最後の言葉」と、遺言をめぐる話

宜保愛子さんの「最後の言葉」を探している読者への、実務的な答えがここにあります。

生前最後の著書と、没後に出た本

生前最後の著書は、2003年1月刊の『宜保愛子の霊がよろこぶ 法事・仏壇・お墓の供養』(日東書院)です。亡くなる4か月前まで、本を出していたことになります。

没後には、『霊に守られて 宜保愛子の最後のメッセージ』(日東書院本社・2003年12月1日刊・239頁)が出ています。死去の約7か月後です。

死後の世界について本人がどう語っていたかを知りたい場合は、1991年2月刊の『宜保愛子の死後の世界』(日東書院本社)があります。

これらの本の中身をここで要約したり引用したりすることはしません。書けるのは、書誌情報までです。出所の分からないネットの文章ではなく、実在して手に取れる本があります。

「黒いノート」の話の出どころ

「遺言の黒いノート」「47冊のノート」といった話が流通しています。この話をたどると、近年のネット上の記事や動画に行き着き、それより前の出所は確認できませんでした。

ノートの中身をここで紹介することはしません。「嘘だ」とも断定せず、「確認できなかった」というところで止めておきます。これも、亡くなった人の名前に話が足されていく仕組みの一つの実例です。

家族について公表されている範囲と、書かない理由

ここでは、あえて書かないことを書きます。

書けるのは、当時の訃報の略歴欄に、結婚して3人の子どもがいたことが記されている、という事実までです。それ以上のことは、当時も公表されていません。

「限りなくひっそりと静かに旅立ちたい」という遺言があり、実際に親族のみの密葬が行われました。その形を選んだ人について、公表されていないことを、ここでは調べません。

夫の名前、子どもの氏名や人数の内訳、職業、現在の状況、弟子や後継者の実名については、書きません。弟子や後継者についても、「いない」と断定するのではなく、確認できる形の記録が見当たらない、というところにとどめます。

これは逃げではありません。「亡くなった人の名前には話が足され続ける」と、ここまで書いてきました。ここで家族の詮索をすれば、その内容と自己矛盾してしまいます。この一貫性そのものが、ここでの答えです。

一人で抱えている問いを誰かに預けたくなったときのための場所もあります。

宜保愛子はなぜ見えなくなったのか|問いに含まれる2つの意味

「なぜ見えなくなったのか」という検索には、実は2つの意味が混ざっています。ここでは、その混線をほどいていきます。

幼いころに左目を負ったけが

宜保愛子さんは幼いころ、左目に火箸が当たるけがを負い、1年ほど闘病したと伝えられています。失明は免れましたが、視力は落ちたと伝えられています。年齢については、資料によって記述が分かれているため、ここでは「幼いころ」とだけ書きます。

本人は取材に対して、「右が1.5で、左が0.2ぐらい」と話したと報じられています。目が見えないわけではありません。視覚そのものを失っていたわけではないというところが、ここでの答えです。

視力の話と、テレビから見えなくなった話の混線

「なぜ見えなくなったのか」という問いには、2つの意味が混ざっています。一つは視力のこと、もう一つはテレビで姿を見なくなったことです。

多くの人が検索しているのは、実は後者のほうです。テレビで姿を見なくなった理由は、ここまでに書いてきた1993年からの流れと、2001年からの復帰の流れにあります。

霊が見えるようになったと本人が語っていた経緯

本人によれば、6歳頃に自分の中の霊能力を自覚したとされています。この話は、本人がそう語っていた、という距離で受け取ってください。ここでは事実として保証しません。

「左目のけがによって霊が見えるようになった」という因果を語る話もありますが、けがと霊視能力を結びつける裏付けは確認できませんでした。その因果には、ここでは触れません。

噂と記録の見分け方|日付と出どころという物差し

ここまで見てきた記録と話を、読者が自分でも使える形に整理します。

レシートのある買い物と、記憶の中の買い物、そのどちらも本当にあった出来事だと思い浮かべてください。証明できるのはレシートのあるほうだけです。記憶のほうが嘘だという意味ではありません。

「日付と出どころ」という、たった1つの物差し

渡す判断基準は、1つだけです。その話に、日付と出どころが付いているかどうか。

日付と出どころが付いていれば記録、付いていなければ話としてとどまります。どちらを楽しむかは自由ですが、混ぜないことが大切です。基準は増やしません。3つも4つもあると、結局使われなくなります。

霊の仕業かどうかを自分で見分けたいときも、この考え方は同じです。

分単位で残っている記録と、年すら付かない話

ここが、いちばん切れ味のある数行です。

ここまで見てきた出典は、新聞や書籍、放送ライブラリーなど、すべて日付の付いたものでした。

亡くなった記録は、分単位で残っています。2003年5月6日午前10時28分、都内の病院、胃がん、71歳。当時の新聞がそう書いています。

一方、「かもめ荘で除霊に失敗した」という話には、番組名も、放送局も、放送日も付いていません。それどころか、たどれる範囲でいちばん古い形には、名前すら入っていませんでした。

だからといって、「嘘だ」とは言いません。「記録の側には入らない」というところで止めておきます。ここまで読んだ人は、自分でもう一度、この対比を検算できます。

怖い話として楽しみたい人への線引き

怖い話が好きで、ここまで読んでくれた人もいると思います。その人を否定するつもりはありません。廃墟や心霊スポットの話を楽しむこと自体は、ここで扱う範囲の外です。

線を引くのは、1か所だけです。実在した人が実際に亡くなった原因に、噂を結びつけたときだけ、話が誰かの人生を書き換えてしまいます。建物のほうにも、同じことが起きていました。無断で立ち入られ、被害を受けていたのは建物の側でした。

「〜すべきです」とは言いません。私はここに線を引いています、という位置から書いています。

まとめ|宜保愛子の死因と、テレビから消えた理由

宜保愛子さんの死因は胃がんで、2003年5月6日午前10時28分に71歳で亡くなったと当時報じられています。「呪いで亡くなった」という話には番組名も放送日も見つからず、たどれる範囲でいちばん古い形には名前すら入っていませんでした。

テレビ出演が減った理由として訃報の原文が挙げているのは、1993年の批判とバッシングです。そして2001年8月に復帰し、亡くなる1か月半前まで、出ていた番組は続いていました。

消えたまま亡くなったのではありません。テレビで見ていたあの人の記憶は、出所の分からない話に上書きされないまま、持っていられます。

たどっても答えの出ない部分だけ、誰かと一緒に確かめてみるという道もあります。

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